黒ひよの【空手ことはじめ】その8

黒ひよの稽古日記

【糸洲安恒(いとす あんこう)】

糸洲安恒の生涯をみますと、唐手の伝授に心血を注いだ教育者の面影が浮かび
あがります。
教え育てることに情熱を傾けた唐手家の一生はどのようなものだったか、
みてみたいと思います。

糸洲安恒は、1831年、琉球王国の中心、首里儀保村(現在の那覇市里儀保町)
に生まれました。
名門の家柄に生まれたわけではありませんでした。
けれどもとより明晰だった安恒は、科(コー)に合格し王府に勤めます。
科とは、昔の中国でも行われていた科挙に似た試験です。
今で言うなら司法試験といったところですが、合格の難しさはそれ以上だった
ようです。
王府の中でも昇進し、右筆(書記)にまでなったそうですから、その有能明晰
ぶりをいかんなく発揮していたのでしょう。

安恒は20代の頃、まず松村宗棍について唐手を学んだそうです。
けれどもどうにも相性が合わなかったようで、師匠宗棍の気に入るところとは
なりませんでした。
意を決した安恒は、宗棍のもとを退きます。
そして改めて那覇手の長浜筑登之親雲上に師事するようになります。
ところがその長浜が夭逝してしまうのです。
残された遺書には、以降は松村宗棍に師事するよう書いてあったといいます。

このため、安恒は再度、宗棍の門をたたくことになります。
このとき安恒は35歳を過ぎていました。
安恒はまた、泊村に住む漂着人、禅南にも武術の教えを乞うたそうです。

琉球が沖縄県になっても、安恒は引き続き沖縄県庁で書記を続け、明治18年、
54歳で退職したといわれています。
弟子を取るようになったのは、この頃からです。
最初の道場は安恒の自宅でした。
初期の弟子には、尾部憲通、花城長茂、久手堅憲由、琉球王族だった本部朝勇、
朝基兄弟らがいました。

明治30年代には、知花朝信、摩文仁賢和らが弟子となり、入門の時期は不明なが
ら喜屋武朝徳、船越義珍などが加わります。

糸洲安恒は、まれに見るほど努力を惜しまない人だったといわれています。
特に巻藁突きを熱心におこない、そのため突きの破壊力は絶大でした。
研究家としてもすぐれ、いくつもの型を考案しました。
また唐手を体育の授業に取り入れることを考え、近代化を進めたのです。

明治34年には、首里尋常小学校でも指導にあたり、さらには県立第一中学校でも
教鞭をふるいました。

糸洲安恒が没したのは、大正4年、85歳の時でした。

一度は松村宗棍のもとを去ったこと、これは安恒にとって苦い経験だったので
はないかと邪推しています。
稀有の教育家が誕生したきっかけのひとつが、この経験を聡明さと努力が後押し
したことだったように感じられました。

安恒によって、唐手は衰退するどころか、より多くの優れた担い手を生み出す
ことになりました。
この新たな唐手家の活躍を、この次の記事にしたいと思います。

黒ひよの稽古日記

Posted by admin