黒ひよの【空手ことはじめ】その9

黒ひよの稽古日記

【沖縄から本土へ】

大正時代に入りますと、糸洲安恒の弟子であった富名腰義珍や本部朝基
らの尽力によって、唐手は本土に伝えられました。
大正11年、文部省主催の第一回体育展覧会で、富名腰義珍は唐手の演武を
行いました。
この演武が、本土初の本格的な唐手の披露となりました。

今日は本部朝基の活躍ぶりをお伝えします。

【本部朝基(もとぶ ちょうき)】

1870年、首里赤平村生まれた本部朝基は、幼少より無類の武術好きでした。
きわめて身軽で、「本部の猿」とあだながつくほどだったそうです。
生家は琉球王族の分家で、名門の家柄でした。

11歳で糸洲安恒に師事します。
糸洲のもとで6、7年修行を積みましたが、他にも首里手の大家・松村宗棍や
佐久間親雲上、また泊手の大家・松茂良興作にも教えを受けました。

ふらりと遊郭へ出かけては、何度も掛け試し(野試合)を挑んだそうです。
そしてただの一度も負けたことはなかったといいます。
24、5歳の頃には、子どもでもその名を知らないものはなかったと言われてい
ます。

大正11年、手がけていた事業が失敗し、出稼ぎのため大阪にいました。
このとき、偶然目にしたボクシング対柔道の興行試合に飛び入り参加するのです。
そしてロシア人ボクサーを一撃で倒してみせました。
新聞や雑誌などメディアは、こぞってこれを取り上げました。
一躍唐手は、全国の知るところとなったのです。
このとき朝基は52歳だったそうです。

翌12年から、兵庫県の御影師範学校(現・神戸大学)や御影警察で唐手師範
として務めるとともに、大阪市に唐手術普及会を結成します。
また15年には、「沖縄拳法唐手術・組手編」を出版と、相次ぐ活躍をしました。
この著書は、これまで受けた教えをまとめただけでなく、自らの実戦経験を
盛り込み、発展させた内容で価値のある文献となりました。

昭和2年になると、上京し唐手の指導にあたりました。
9年には東京小石川原町(現在は文京区白山)に空手道場「大道館」を設立
します。
さらに鉄道省、東洋大学などでも唐手を指導しました。
大道館で本部に師事した大塚博紀(和道流)は、「ともかく本部さんは文句なく強い人という印象です」と述懐しています。

この頃、不世出のボクサーといわれたピストン堀口が大道館を訪れています。
本部は「遠慮なくかかってきなさい。」と堀口に言いました。
本部は堀口のパンチすべてを鮮やかにさばき、懐に入ると、その眉間スレスレ
に拳を突いたそうです。
「駄目だ、全然歯が立たない、参りました」
こう言って堀口は構えを解いたそうです。

昭和6年に、生まれ故郷の沖縄へ戻ったそうです。
そして9年、74歳で没しました。

「武是れ我、我是れ武」
本部朝基の生前の言葉です。

※本部朝基の人生についての小説は、こちらに紹介しております。面白いです。

黒ひよの稽古日記

Posted by admin