門間理良の黒帯への階段 第1話:なぜか大道塾入門

門間理良の黒帯への階段

自分勝手に思い出話をしているうちに6月が来ても仕方がないので、二部構成でブログはすすめます。なお、26年前の与太話はこちらの不鮮明な記憶に基づいているところもあるうえ、念入りな確認作業は行っていませんので、意図的ではないにしても事実と異なる部分があるかもしれません。あしからずご了承ください。

第一部 大道塾入門への道
1981年4月、私は仙台で高校生になっていた。高校入学して間もなくの頃だったと思う。「近くに極真空手系の新道場ができたんだってさ。極真の全日本チャンピオンだった人が始めたんだ」という話が友人たちの間から出た。

私は『バカ一代』世代でいえば、後期ということになるだろう。小学校3年生のときにアニメを見て「空手をやりたい」と口走ったが、当時住んでいた秋田市の自宅近所にはあいにく空手の道場がなかった。そこで、父が見つけてきてくれたのが、千秋公園(秋田城址)にある合気道道場で、妹と二人小学校3、4年生の時に通った。しかし、小学校5年1学期の終わりに愛知県に転校するとともに、道場通いも自然消滅した。

新しい田舎の学校はすごい暴れん坊がいて、また自分も学校に慣れようという努力を怠っていたので、最初の数ヶ月はかなりひどいいじめを受けた。だが、習った合気道を使って事態の打開を図ろうとは思わなかった。最初から相手に気おされていたからである。一度取っ組み合いになったが、やっぱり負けた。そうはいっても、私も学校に慣れて友人も大勢でき、6年生になる頃からは楽しい小学校生活となった。

中学校入学時から仙台に戻った。この中学校は仙台一のマンモス中学校で、特に中3のころは校内暴力がすごかった。ただ、不良グループにいたメンバーの多くが、同じ幼稚園出身だったので、その頃の姿を覚えたいたため怖い気がしなかった。彼らもそういう感覚があったのか、私に敵意を示すことはなく、結構気楽に過ごした3年間だった。結局、この3年間も武道の武の字も出てこない。せいぜい体育の時間に剣道を少しやったくらいだが、使いまわしの防具が埃くさくていやだったという印象しかない。

そして高校である。入学したのは仙台一高という地元では進学校と見なされていた高校だった。学校生活は中学時代とうって変わって静かそのもの。窓ガラスも割れていないし、生徒の教室籠城もない。こんなに学校とは静かなところだったのかとびっくりしたものだ。

それはさておき、私は迷わず放送部に入った。中学校時代に仲良くしていた生徒会役員の先輩たちが大勢いたからである。その後、地学部天文班にも掛け持ちで入った。放送部に地学部、要するに「お宅」である。それはそれとして、なにかやろうと思っていたところに、空手道場開設の話である(大道塾の創設は私の高校入学より2ヵ月早いのだが)。幸い道場は高校から自転車で5分くらいのところだったので、親の承諾を得て(月謝を出してもらわねばならない)、友人を誘い(1人で行く勇気はない)道場、大道塾本部に向かった。

今思い返しても、なんであの時大道塾に入ろうと考えたのか、はっきりと思い出せない。格闘技お宅でもなかったので、まさに「なんとなく」という感じだったのだろう。

入門前の見学はしなかった。すぐに稽古を始めさせてもらうつもりだった。ただ、「道衣の在庫がなかったらジャージで稽古かな? それは格好悪いや」、などと考え、とりあえず柔道着を持参していった(柔道が必須科目だったので持っていた)。空手についても、要はその程度の認識だったのである(だが、後年大道塾に再入門してみると組技の稽古のときは、上は柔道着を着る先輩がいらっしゃった。場合によっては、それも悪くないのであろう)。

受付はやさしい顔をした二十歳を過ぎたくらいの女性で、すぐに手続きが終わった。渡された塾生証はオレンジ色っぽいものだ。今思うと、このときの塾生証は色・形や活字のレイアウトも現在のそれとほとんど変わっていないようだ。ただ、このときは塾生証に直接小さなはんこ(何種類かある)をついて出席を確認するという形式だった。道衣もすぐに渡された。白地で胸の部分に「空手道」、腕の部分には「大道塾」と刺繍が入っていた。黄帯を締めた寮生が、着替えの場所やトイレの位置などを教えてくれた。ニコニコとした笑顔がとても印象的な人だった。そして、稽古が始まった。