髭失格(2)

髭(ひげ)失格

 冷たい水滴の顔面に弾けるのを感じて、私は正気をとり戻した。鈍い重みを感じて頭を振ってみたものの、全身を眺め回してみてもどこにも怪我はない。どちらかといえば二日酔いの頭痛に近い感覚が残っているだけである。周囲を恐る恐る見渡すと、どうやら自分はどこかの街道の路肩に長い間横たわっていたらしい。暗い夜道に冷たい雨が音もなく、しとしとと降っていて、全身ずぶ濡れである。ふと思い出したように私は、自分の口顎に手をやった。

”・・・ある。”

 普段、私は自分の髭のことを差程に気にしたことはない。無精ということもあるが、三十路を前にして髭を伸ばすようになった。私の周辺では髭に対する偏見もなく、早死にした親父も髭をたくわえていたということもあるかもしれない。自分の家系のことなど詳しくもないが、幼い頃によく遊びにいった祖父母の家に飾られていた肖像画に残る御先祖さんは、やはり髭を生やしていた(写真)。
なんでも熊本藩の細川家につかえた立派な爺さんらしく、平素は近所の子供達に武道の稽古をつける温厚な人だったが、一度内紛が起きた時などは三日三晩寝ずに荒ぶる暴徒らを相手に談判し、最後には根負けさせたという、強い胆力の持ち主であったらしい。その代わり、その後は腰を抜かしたように三日三晩寝込んでしまったというのも愛嬌である。
 ついついつまらぬことから昔聞いた話を思い出してしまったが、勿論、私は今晩わが身にふりかかった出来事をちゃんと記憶しているし、つまりは私は正気だということを自分自身に証明したかったまでのことだ。

”しかし、しかし、・・・なぜ髭なんだろ!?”

記憶は限りなく現実的なのだが、理性がどうしても納得しようとしない。考えようとしてみるのだが、どうにも糸口が見当たらない。奇異な事件である。そもそも私は高層ビルの17階から、あの長身のガンマンもろとも落下したはずだが、暗闇に目を凝らしてもビルらしいものはどこにも見当たらない。それどころか周囲には灯明さえなく、厚い雲にうっすらと透ける月光だけが頼りなのだった。自分の横たわっていた路肩は雨水で泥んこだし、四方には松林の影のような象形がおぼろげに確認できる。ふと気がつくと、泥にまみれた私の手の中には、“1713”という数字が深く刻まれたカードが握られていた。あのTRX2700が渡してくれたルーム・キーである。と同時に、長身のガンマンを殴ったときの感触が拳に戻ってきた。間違えない。あれは生身の人間を殴ったときの感触だ。それに、奴が思わず漏らした「ぐふうっ」という呻き声。職業柄、幾多の用途別ロボット類を見てきたなかで、衝撃に対して呻き声を出すロボットは一部のマニア向けに開発・販売されたことはあった。が、あれほど精巧な音色を出せるものは製造されていない。その手のマニア達はどちらかというと、人工血液の噴き出し方だとか、刃物で切り裂いた時の皮下脂肪の厚さだとかに関する要望が多く、まあ彼らの趣味もまだまだ発展途上だったといえる。そういえば、髭の生えるロボットだって作ったことがあったな。毎日、性懲りもなく0.5mmくらいづつ髭が伸びるというだけの特質なのだが、すべての髭が均等に伸びないようにするのがむしろ難しかったっけ。

”いやいや、そんな事を思い出している場合じゃないぞ。冷静になれ。俺の髭はまだ残っている。ということは、奴は少なくともまだ起き上がってはいない。仮に俺よりも早く気がついたんだとしたら、この暗闇で俺の姿を発見できずに立ち去った可能性もあるな・・・。”

頭の回転に拍車がかかってくると、ちょっと髭がムズムズした。ガンマン野郎との戦闘を思い出し、これまたちょっと得意気である。自分は趣味で剣術を長く稽古してきたが、当然のことながら体術も習得している。咄嗟にあれくらいの身のこなしはできるのだ。私は立ち上がり、雨のやまぬ泥道をゆっくりと歩き始めた。敵の存在に十分注意を払いつつ、まずは状況把握だ。あまりに不可解な境遇にあって、自分が頼れるものは一つしかなかった。

私は、髭の向くままに歩を進めた。

髭(ひげ)失格

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