髭失格(3)

髭(ひげ)失格

私はひたすら歩き続けた。なぜこんなことになったのか考えていた。私は理解していた。すべての事柄は、この場所、札幌から始まっていることに・・・。

数十年という月日が過ぎ去った今でも、私はあの風景をはっきり思い出すことができる。空はどこまでも青く、山は深い緑に染まり、風は涼しげに吹いていた。関西出身の私にはすべてが新鮮で、夢と希望にあふれた大学生活の始まりだった。好きなロボット工学の研究を通じ、全ての人を幸せにしたいと本気で思っていた。大学の授業はそれなりに面白く、高校時代から続けていた剣術修行の一環として入部した剣道部での稽古も楽しく、おおらかで、おだやかな環境の中で充実した日々を過ごしていた。

剣道部の稽古が終わった後、いつも立ち寄る本屋の中で私は、ジュンに出会った。武道関連のコーナーで立ち読みしていた私の肩にぶつかってきたのが、ジュンだった。
「すいません。だいじょうぶですか。」
肩をすぼめて私の目を覗き込むジュンがいた。
「ああ。気にしないでいいですよ。立ち読みしているだけですから。」
私は、そのままの状態を言うことが精一杯で、気の利いたことは言えなかった。もともとアドリブが上手くないこともあったが、ジュンの顔を見た瞬間、不思議な感情が湧き上がってきたことにとまどったのだ。

そう、私は、ジュンに恋をした。

これまで女性に対して恋愛感情を抱いたことはなく、付き合った経験もない私にとってそれは、紛れもない初恋の瞬間だった。その瞬間から私にとってジュンは、かけがいのない存在になった。

近くの喫茶店で私は、ジュンの話を黙って聞いた。ずっと昔から付き合っているかの様に、ジュンの話を黙って聞いた。ジュンが同じ大学の文学部の学生で、ラクビー部のマネージャーをしていること、東海地方の出身で熱狂的なドラゴンズファンであること、甘いものは苦手で、辛い大根おろしが好きなこと、ワインより焼酎が好きなこと、髭を生やした男性が好きなこと等々、いろんなことを聞いた。彼女にとって大事なものは、私にとっても大事なものになった。その日から、私と髭の付き合いは始まった。

付き合い始めて1年が経ち、ジュンの部屋によく泊まるようになっていた。
「朝からバイトだから今からいくね。ヒロ、カギはいつものようにポストに入れて帰ってね。」でかける用意をしながらジュンは私に声をかけた。
布団の中から頭を出し、うなずく私を見て、微笑みながらジュンはでていった。ジュンは、私にとってかけがえのない存在であり、ジュンがいない人生は考えられなかった。昼過ぎに起きた私は、そろそろ一緒に住んでもいいかなと思いながら、帰り支度をしていた。一度下宿に帰って準備をし、午後からの剣道部の稽古にでる予定だった。

けたたましいチャイムを鳴らし、宅配便を配達にきた男性がドアの外にいた。
「すいません。宅配便です。ご在宅ですか。」
宅配便の男性の大声がドアの外で響いた。私はジュン宛の荷物を受け取った。
荷物をテーブルの上に置き、帰ろうとした時、彼女の免許証がテーブルの下に
落ちていたのに気がついた。私は、それを拾ってテーブルの上に置いた。
何気なく見た免許証の名前の欄には尻野淳之介と書いてあった。
写真は間違いなくジュンであった。宅配便の宛名には尻野淳之介様と書いてあった。私は、胸の高鳴りと脂汗が流れる自分を認識しながら、その事実を理解した。

そう、ジュンは、男だったのだ。

私は、これからどうしたらいいのか、わからず立ち尽くした。
初めて愛した女性が本当は男だった。混乱する頭の中で私は、ただ立ち尽くした。その日以来、ジュンとは会っていない。ジュンと会って何を話すのか、私は何も考えられず、逃げるように北海道を離れた。

あの日以来、誰も愛することができない自分がいる。
あの日以来、頭から離れない記号がある。それは、宅配便に書いてあった。

尻野淳之介 GAYX0001

ここ数ヶ月間、自分の身にふりかかってきたことを解決する為に、
私は、今、札幌にいる。

髭(ひげ)失格

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