黒ひよの【空手ことはじめ】その5

黒ひよの稽古日記

はっきりとした拠りどころがないため、これまで漠然とした話に
ならざるを得ませんでした。
けれども時代がすすむにつれて、だんだんとその姿が明らかになっ
ていきます。

16世紀に書かれた琉球の歴史書「球陽」には、命を狙われた京阿
波根実基(きょうあはごん じっき)が、空手(くうしゅ)にて
相手を倒したと書かれています。
しかし残念ながら、この空手がどのような武術だったのか、ある
いは単に素手を意味したのかはわかっていません。

17世紀まで、何らかの格闘武術があったことは確かですが、それ
がどのような武術であったか、またどれほど体系化していたかは、
謎につつまれています。
わずかに池城安頼、蔡肇功などの武術家の名前がのこされている
のみです。

ところが18世紀に入りますと、にわかに様子が変わってきます。

西平親方、具志川親方、僧侶通信、渡嘉敷親雲上、蔡世昌、真壁
朝顕ら多くの武人の名が後世に伝わっています。

そうした中、この師弟をあげないわけにはいかないでしょう。
佐久川寛賀とその弟子松村宗棍です。

【佐久川寛賀(さくかわ かんが)】
佐久川寛賀は1782年、首里赤田村の士族の家に生まれました。
もとから佐久川姓だったのではなく、旧姓は照屋だったといいます。

はじめて師事した人の名は明らかになっていません。
一説に18世紀に中国から来た公相君だったも言われていますが、
公相君が琉球に来たのは1756年です。
佐久川が生まれるよりはるかに前ですから、信憑性に乏しいとさ
れています。

1806年、若き寛賀は中国・北京へ留学します。
この航海途中に、船は海賊に襲われてしまいます。
そのとき、寛賀は棒術を用いて撃退したという武勇伝があります。
北京では、国子監(最高学府)内に設けられた琉球学館で勉強を
しつつ、そのかたわらで中国武術を修得しました。

この武術を寛賀は琉球に持ち帰りました。
琉球にあった「手」に、中国武術を取り入れたのです。
今日ではこれこそが唐手の原型だとされています。
「唐手佐久川」とあだなされた寛賀においてはじめて、史書に
唐手の二文字が現れるのです。

寛賀は何度も中国を訪れています。
きっと訪れるたびに、中国武術をわがものとしていったのでしょう。

「彼(寛賀)の後には彼はなく、後世の世に称せられる人で、力量
その他の点において、彼の右に出るほどの人はなかった」(本部朝基)

1835年、八重山在番という役職に就き、同時に佐久川の姓を与えられます。
1837年、北京にて客死、享年56歳でした。

「空手の父」と呼ばれた佐久川寛賀の遺骨は、北京の外蛮墓地に葬ら
れています。

さて明日は寛賀の弟子、松村宗棍をご紹介します。

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