第12話:原点回帰(再び青帯を締める)

門間理良の黒帯への階段

 2006年6月、私は25年前に締めていた青帯(第四話参照)を再び締めるために、昇級審査にチャレンジすることにした。

 審査前の稽古では、ビジネスマンクラスの高野先輩に効果的な下段蹴りを教わったり、火木3部担当の朝岡先輩に審査のための3本組手の練習をやらせてもらったりした。また、1部担当の南城先輩には、「とにかく押し負けるな。前に出ろ」のアドバイスを戴くなど、多くの先輩からお世話になった。

 審査を受けるにあたり、最も心配していたのは体力チェックであった。何度か自宅や駒沢公園でランニングした折などを利用して予行演習をやってみるのだが、どうしても拳立て伏せ70回、ジャンピングスクワット70回がクリアできないのである。これはマジでやばいな、と思っていた。

 しかも、申し込みの締切りも当然あるが、あまりに直前に体力チェックを受けると、思い切り筋肉痛を抱えたまま審査に挑むことになる。それは避けたい。そこで、審査約1週間前の1部の稽古に参加して、その稽古が終わったときに、別府さんにチェックをお願いすることにした。

 どちらからやっても良いとのことだが、より自信のないのは拳立ての方であるので、体力があるうちにそれをやることにした。緊張が高まる。

 体勢を整えて数を数えてもらう。すると…

(あ、カウントが速い!)

 心の中で私は小躍りした。25年前の「い~ち~い、にい~い」という、あたかも塾生から体力を奪う魔女の呪いのような遅さから、普通の人類が普通に数を数えるような「1、2」に近い速さになっているではないか!!

 私の知らぬ四半世紀の間に、近代的な時間秩序が大道塾に導入されていたのである。これは密かに私を狂喜させた。それとともに、(これならいけるのでは?)という希望も生れた。

 100を数える間に、1回の小休止が認められていることは承知していたので、腕をプルプル震わせながらもなんとか41回をやった。その後70秒まで休んでから再開したが、疲れはピークに達していた。結局、拳立ては合計で61回に終わった。

 微妙な回数であるが、無下に撥ねられるような数字ではあるまい、と前向きに考えた。

 1~2分休憩して続いてJスクワットだ。こちらは、前半に40回、小休止後に31回だったので規定回数はクリアできた。少なくとも体力チェックで落とされる心配はなくなったと思った。

 チェックが終わり更衣室に戻ってベンチに腰をかけたが、脚がぶるぶると震えて、また疲労困憊で立つこともできない。南城先輩に、1週間もあれば筋肉痛も十分取れるからという言葉をかけられながら、私は腰を上げられず、ただ口だけで「押忍…、押忍…」と答えるだけだった。

 その後2、3日は太腿からお尻にかけての筋肉痛で辛かったが、それからも徐々に回復していった。

 2006年6月10日だったと思う。その日は土曜日で、いつものビジネスマンクラスの時間帯に昇級審査が行われた。関東地区から受審希望の塾生が続々と詰め掛けてくる。ビジネスマンクラスも多いが、こちらもそれに引けを取らない数だ。なによりも皆、私よりはるかに強そうだ。

 ごった返す3階道場で東先生を迎えて審査が始まった。準備運動のあと、基本稽古を行う。先生が塾生一人一人の動きをチェックしているのがわかり、緊張する。

 移動稽古はふだん朝岡先輩や清水先輩に教えていただいていたので、それほど焦ることなくできたのだが、東先生が念入りにチェックされるので、時間がどんどん経っていく感じだ。これでけっこう疲れてしまった。

 移動が終わると、いよいよ組手審査である。いわゆるガチだ。ついに25年ぶりにこの瞬間を迎えた。

 道場からベーシックガードを借りてかぶった。目の辺りは全面的に開放されているのに、滅茶苦茶な息苦しさを覚える。緊張が極に達しているのだ。何度も深呼吸する。

 私の相手は新宿支部の白帯の方だ。体格は同じくらいだが、相手の方が強そうだ。だが、自由意志でここまで来た以上、逃げるわけにはいかない。
 
 東先生が制限無しの組手とおっしゃる。3本組手ではなかった。聞いていたのと話が違うなとは思ったが、制限無しでやるのは、何度かマススパー(いい響きだ)で経験しているし、かえって戸惑わなくていいや、と割り切った。そして組手が始まった。

 肝心の組手の内容だが、正直申し上げてよく覚えていない。ただ、情けないが押されていたことは確かだと思う。主観的には、かなり長い時間を戦ったような気がした。

 終わって正面(東先生)、審判に続けて礼をして、相手とお互いに礼。さらに握手して、後に下がって礼。

 そこで、どなたか先輩に「お疲れさん」と声をかけられたが、もう汗みどろで、声も良く出ない有様だった。だが、とにかく終わったのは事実だ。ほっとした。

 続いて先輩方の昇級審査だ。このときは佐藤先輩と梶村先輩の昇段審査の日でもあった。両先輩を相手に木下先輩(当時は黄帯)や小原さん(当時は青帯)らが、がんがん攻めまくり、村上先輩(当時は緑帯)が華麗に戦っていたのを覚えている。

 昇段審査は佐藤先輩が見事合格、梶村先輩は残念な結果に終わった(しかしその後先輩は2007年3月の審査で雪辱を果たし、黒帯を獲得された。おめでとうございます)。

 ようやく全てが終わって、着替えてみると、身体の正面があざだらけである。腕や脚も同様だ。

 対戦した方と着替えながら、「やあ、痛かったですね。またお会いしましょう!」などと話をする。さっき、本気で殴りあい、蹴りあいをやった人と笑顔で互いに健闘を称えあうのだから、武道はおもしろいところがある。

 家に帰って身体を姿見でよく見直したら、あざは左上半身に多くできていたことがわかった。左を前にしているから当たりやすかったのだろうか。

 翌日、目を覚ますと、ものすごい筋肉痛と打撲痛に襲われていた。身体のあざの色は昨日道場で見たときは赤っぽい色合いだったが、時間の経過とともに濃くなって、今では紫色だ。そして、異常なくらい眠い。そのため、日曜日はほとんど寝てすごした。

 明けて月曜日は、ちょうど人間ドックの日だった。ガウンをはおっての診察がほとんどだが、心電図をとるときや、内科検診で聴診器を当てられるときは脱がなくてはならない。医師たちが一瞬ぎょっとするのがわかる。そのたびに「一昨日、武道の昇級審査を受けまして…」と説明して納得してもらう。

 後日、人間ドックの検査結果が送られてきた。幸い身体は健康そのものだった。体重は空道を始める直前には70.4㎏になり、自分史上初の70㎏突破に焦っていたのだが、このときには67、8㎏になっていた。ここ十数年高めだった血圧も最高最低値ともに下がっている。空道を稽古している成果が早くもでたのだろうか。

 ただ、1つ血液検査で異常が発見された。なんとかの数値が基準を遥かに超えていたのだ。気になってインターネットで調べてみたら、それは筋肉組織が破壊された時に血中にでてくるものだとわかった。しかもそれは筋肉破壊の当日よりも2日後くらいに多くでてくるとあった。身に覚えがあったので、安心して放っておくことにした。

 昇級審査の結果がわかったのは、翌週の木曜日だった。どきどきしながら道場についてみると、審査結果が張り出してあり、8級の欄に私の氏名が記されていた。うれしくて何度も何度も見てしまった。

 少し落ち着くと、他の人の結果を見る余裕も出た。私の対戦相手も8級を取っていた。村上先輩や木下先輩ら日頃お世話になっている先輩たちの名前もある。その一方で昇級を認められなかった先輩もいらっしゃる。悲喜こもごもだ。

 道衣に着替えて道場に入って柔軟体操をしていたら、別府さんが「おめでとうございます」と青帯を渡してくれた。周りにいた皆が拍手してくれたのが、うれしかった。

 とにもかくにも、25年ぶりに青帯が私の元に帰ってきたのだった。真の意味での再挑戦がここから始まったのである。