第50話:1級をかけた戦い(中編)
審査はいつものように、基本稽古から始まった。これは、特に問題ない。
次の移動稽古は広くない道場でやるから、なかなか大変である。
伊東先輩は事務机の脚を蹴っ飛ばしていたし、私などは壁際に立っていた東先生の足を踏んづけてしまったのである! 「むぎゅっ」というほどの踏み方ではないが、運動の時とは違う汗が出て「失礼しました!」とすぐに小声で謝った。
さらに、その後の足技の移動のときは、黒ひよ先輩の脚を蹴ってしまい、これはパチーンといい音をさせてしまった。すいません…。
審査の始まりの段階で基本と移動をやることで、いいことが一つあると私が思っていることがある。
それは、体を動かしている間に、「まあ仕方ねえ。いっちょやるか」というあきらめの境地に至るということである。道衣を着た途端、「さあ組み手開始!」では、私の場合、精神的にエンジンがかからない気がするのだ。
その後、投げ、締め、関節の審査をやったが、茶帯以上がやる締め、関節は受審者が奇数だったため、余った私の相手を頃安さんが務めてくれた。
さて、組み手である。今回は昇段審査の方々から始まった。私は、中島先輩の格闘ルール2人目の相手と、伊東先輩の寝技の相手を務めることとなった。
中島先輩は、見るからに精悍で強そうであるが、1戦目が伊東先輩との対決なので、相当体力の消耗はあるだろうから、私のような者でもなんとか戦えるかもしれない。
不埒かつ卑怯な私はそう考えて、(自分のためにも)伊東先輩に思いきりエールを送ったのである。
実際に伊東先輩と中島先輩の組手を拝見したときに、中島先輩の弱点なり癖なりでも見つかればと思ったが、節穴の目にはわからない。
ただ、なぜかはわからないが、そこそこの試合に持ち込めるだろうとの根拠ない希望を私は抱いた。
(中島先輩をはじめとする吉祥寺の方々、どうかここは怒らないで笑って受け流してください)
黒木先輩を主審に対戦がはじまってみると、中島先輩はパンチがうまい。こちらが接近していくと、それにあわせて3、4発のパンチが入ってくる。ダメージは全くないのだが、パンチを避けられない私の印象が悪いのは明らかだ。
さらに、組み合ったときにはひざ蹴りを連打されてしまった。中島先輩を応援する方々から「膝効いているぞ~!」の声援が上がった。
しかし、これだけは言っておきたい。あれは全く効いていませんでした!
こちらだって負けてはいない。先輩は疲れていらっしゃるから、こちらの前蹴りや横蹴りが入ることもけっこうあった。
また、最後の時間帯に近づいたころには私の投げがうまく決まったのだが、一緒に倒れてしまったので、すぐに止めの声がかかってしまったのは惜しかった。
だが、私はこのときに「ああ!」と閃いた。
それは最後の組手で大いに活かされることになる。
結局私は、中島先輩に優勢負けしてしまった。
けっこう戦えたとは思ったのだが、冷静に見ればそういう結果であろうと、特に不服はなかった。
次は、ある程度時間をおいて、伊東先輩との寝技対決である。先輩とは打撃戦でお相手すると思っていたので拍子ぬけだったが、これまで審査で寝技は体験していないので、これはこれで別の緊張が走った。
伊東先輩はすでに格闘ルールと基本ルールで戦ってきているので、相当疲れている。これはチャンスだ! どこまでも卑怯な私である。
ここでの主審は松原先輩である。
じゃんけんに負けた私が下から始まったのだが、ほどなく伊東先輩にこちらの脚をうまく処理されてマウントされてしまった。
こちらもすぐに先輩の右足にこちらの左足をひっかけつつ左へのブリッジではねのけようとしたが、重いうえにバランスをうまく取っていてはね返せなかった。
そのうち伊東先輩はマウントパンチの態勢になって、打撃のゼスチャーをかけてきた。私も必死になって防戦する。何度か伊東先輩が殴る真似をする。
「ああ、効果を取られる~」と覚悟したが、意外な言葉が聞こえた。
松原先輩が「手をつかんでいる。不十分なので、まだこれは取りません!」とおっしゃるではないか!
実は私はこのとき、試合をしている、しかも防戦一方の状態であるにもかかわらず、その言葉を聞いてやや感動していたのである。
普通、黒帯の昇段審査の時には昇段を懸ける側に若干甘く採点する部分があるだろうな、となんとなく思っていたし、それは当然のことと納得もしていたからである。
ところが、松原先輩のあの厳しいジャッジである。槇山先輩のジャッジもそうだったが、けっこう身内には厳格な姿勢なのである。
私もそれを聞いて、さらに意を強くして抵抗したのだが、おさえていた片手を振り切られて、今度は完全な態勢でマウントパンチを取られて、あえなく効果を奪われ、そのままタイムアップとなった。
一方、私が上になったときは、全く攻めきれずこれもタイムアップで、寝技戦は完敗だった。
結局組み手は2戦全敗だった…。
昇段審査の先輩方の組手がすべて終わった時には、19時近かったと思う。
「時間も遅いからもう終わりじゃないか」という声も一部から聞こえていた。
しかし、私は寝技戦のときに外していたサポーター類をすべて着装しなおして面を手にして待っていた。気分は完全な戦闘モードである。
「絶対にもう一試合あるはずだ! そうしたら試したいことがある!!」
審査の時にこんな気持ちになったのは、初めてだった。
いつもなら、「早く終われ~、終わってくれ~」の私である。
実は私自身の初戦に加え、さきほどの伊東先輩の基本ルール組手を見ながら考えていたことがあったことが、私の気持ちを積極的にさせていた。
私の期待に応えてくれるかのように、松原先輩の声がかかった。
「これから色帯同士の組手をします!」
(よし、オレの組手はこれからだ~!)
総本部道場に、心の中で叫んでいる私がいた 😡
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