黒ひよの【空手ことはじめ】その6
佐久川寛賀に続いて、今日はその弟子松村宗棍をご紹介しましょう。
【松村宗棍(まつむら そうこん)】
松村宗棍は1809年、首里山川村に生まれました。
現在の那覇市首里山川町です。
生家は琉球王家尚氏の血筋を引く、由緒正しい武士階級だったと言われて
います。
宗棍は17、8歳頃からすでに武術家としての素質を発揮していたそうです。
佐久川寛賀に学んだだけでなく、薩摩藩に渡って伊集院弥七郎より「示現流」
と呼ばれる剣術も学びました。
空手の巻藁突きは、この示現流の「立ち木打ち」から着想を得たものとも
言われています。
また福建省南安から漂着し、泊村に住んでいた中国人から中国拳法の教えも
授かったとされています。
1836年、宗棍は佐久川寛賀に随伴して北京へ留学します。
勉強のかたわら、北京王宮の武術教官「違伯(イファー)」より中国に伝わる
武術を修得したのです。
翌1837年、佐久川が客氏したため、師の遺骨とともに琉球へ帰国しました。
その後は、御側守役という役職に就きます。
これは平たく言えばSP、国王のボディガードといった役目でした。
そして国王の武術指南役としても活躍したのです。
晩年はもっぱら唐手の指導者として、後進の指導にあたりました。
そして1899年(明治32年)に91歳の長寿で亡くなりました。
安里安恒、糸洲安恒、本部朝基、喜屋武朝徳親子ら多くの弟子に、宗棍の遺志は引き継がれたのです。
現在も那覇市古島に墓碑が建っています。
【与那嶺ツル(よなみね つる)】
もう一人、お伝えしたい人物がいます。
このブログを書くにあたり、史上初の女流武術家は誰だったのだろう、そして
その経歴はどのようなものだったろうかと考えていました。
そして見つけたのが松村宗棍の妻、与那嶺ツルの名前です。
女流唐手家だったと伝わっています。
残念ながらその経歴までは明らかにできませんでしたし、史上初かどうかも不明なままです。
けれども琉球王国時代の偉大な唐手家、松村宗棍について武術を学んだであろう琉球女性の姿を彷彿するのです。
なんだかオリオンビールや泡盛を飲みたくなってきました。
【追記】
昨日の記事で、佐久川寛賀は56歳で亡くなったと書きましたが、80歳で亡くなったとする説もありました。
ここに付け加えます。
ディスカッション
コメント一覧
松原隆一郎
なんだか、圧倒されるね。
もうすぐ、四天王みたいな大家が続々と登場ということで。その直前の、嵐の前の静けさというか。
ツルさん、素敵です。まさに、オリオンビールを飲みに、池袋西口や高円寺の沖縄居酒屋に行きたくなりますね。
ところで、黒ひよさん的には、陳元ピンはダメ筋だったでしょうか・・・
下村 博美
黒ひよさん
沖縄唐手に勉強させていただいています。
女流武術家といえるか(素手でないですから)は解りませんが平家物語にも出てくる巴御前などは有名ではないでしょうか?
あと、戦国時代にも世間のイメージ以上に女性兵士、武将は結構いたようですよ?史学でも最近は女軍?の存在が認められつつありますし、某大名など旦那が負けそうになったのを見かねて奥さんが鎧兜を着て家来を率いて出陣して敵を撃退したというエピソードもあるようですし、あの武田軍団の規則に女性武将を討ち取ったら罰する!という規則があったようですから。
でも素手の武術となるとツルさんかもしれませんね?
黒ひよ
松原先生:
陳元ピンは、私の不勉強もあり少々書きにくく、難しかったです。
申し訳ありません。
今日の記事で明治時代になりました。
まさに嵐の前の静けさが破れようとしているところです。
今度、西口の沖縄居酒屋に行きたいです!!!
下村先輩:
思わず巴御前を調べてしまいました。
すごい武歴の持ち主なのですね。
しかも美人だったなんて。。。くぅ~ ウラヤマシイですっ
>旦那が負けそうになったのを見かねて奥さんが・・・
これを夫思いの妻と見るか、かかぁ天下と見るか、意見が分かれるところでしょうね!
松原隆一郎
このまま、怒濤の歴史を綴って下さい。
僕自身は、空手が柔道よりも相当遅れて本土に入ってきたのにこれだけ急速に世界に普及した原動力は、大日本武徳会に属するようになったことと推測しています。
なにしろ、会員300万人、満州や台湾まですべての都道府県に支部があった半行政組織ですから。
この大作が完結したら、沖縄居酒屋で祝杯を上げましょう!!(まだ気が早いか?)