黒ひよの【空手ことはじめ】その10

黒ひよの稽古日記

23日の試合のカードが決まり、いよいよ熱を帯びてきたように
思います。
大宮西、吉祥寺各支部の方々のご活躍が楽しみですが、やはり
なんといっても我らがビジネスマンクラスの成功を祈らずには
いられません。
渡辺支部長VS松原先生の一騎打ちを黄金カードといわずして、
何といいましょう。
またとない交流が出来るのではないかと、楽しみにしています。
檄文でも回したいところです。
エイ・エイ・オォ!!!

さて、話を主題にもどすことにいたします。

本土に唐手が広まるにつれて、技術的な違いや伝承系統が細分
化していくことになります。
これに伴い、はじめて流派名が必要とされました。
さまざまな流派が生み出されましたが、なかでも4つの大流派
がありました。
すなわち、

・剛柔流
・糸東流
・松涛館流
・和道流

です。

今日は松涛館流の始祖、冨名腰義珍について触れることで、
この時代の唐手(空手)の一側面を見たいと思います。

【冨名腰義珍(ふなこし ぎちん)】

冨名腰義珍は1868年(明治元年、戸籍上は明治3年)、首里
山川村に生まれました。
生家は士族だったそうですが、義珍の父親義枢があまりに
大酒飲みだったため、義珍が生まれたときにはすっかり困窮
していたといいます。

幼少の頃は、病弱だったそうです。
21歳の時に学校教師となり、以降30数年間、小学校などで
教え続けることになります。

明治18年、16歳の時に初めて那覇手の湖城大禎に師事します。
続いて首里手の安里安恒に教えを受ける一方、安里と同門で
あった糸洲安恒にも師事する機会がありました。

本格的に唐手の普及に務めたのは退職後になってからです。
友人たちと沖縄学生後援会や沖縄尚武会を設立し、活動を開始
したのです。
大正10年、昭和天皇が沖縄を訪れた際、冨名腰の指揮のもと、
中学校や師範学校の生徒たちが御前演武を行いました。

翌年、冨名腰は上京し文部省主催の第一回体育展覧会や講道館
で演武を披露、また「琉球拳法 唐手」の出版と普及活動は勢いを
増していきます。
弟子たちの協力を得ながら、本土における約束組手を作り上げた
のもこの頃です。

冨名腰は自由組手や試合の実施には、断固として反対の立場を
とっていました。
大正13年に慶応義塾大学、翌年に東京帝国大学で唐手師範となって
いますが、東大唐手研究会が試合化を検討するや、これに抗議して
辞任しています。

昭和4年、船越(昭和に入ってから冨名腰より改姓)は唐手を「空手」
に改めると発表します。
般若心経の「色即是空」から「空」の概念を元にしたそうです。
当時の日中関係も「空手」に改める一因になったといわれています。

念願の「松涛館」道場を設立したのは、昭和14年でした。
船越本人が松涛館流と名乗ることはなかったそうです。
晩年になっても空手の普及に務め、1957年(昭和32年)に88歳で
永眠しました。

船越の残した松涛二十訓から、抜粋してみます。

空手道は礼に始まり礼に終る事を忘るな
空手の修行は一生である
凡ゆるものを空手化せよ其処に妙味あり
勝つ考は持つな負けぬ考は必要
人の手足を剣と思へ
男子門を出づれば百万の敵あり
常に思念工夫せよ

私など、ひとつも我がものとすることが出来ないような気がします。
あらゆるものを空手化するとは、どういう意味なのでしょう。
さっぱり分かりません。
これからよく考えてみようと思います。

※冨名腰義珍の人生を小説にしたものは、こちらに紹介しております。

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