第3話:ここが違う!-26年前と現在の稽古-

門間理良の黒帯への階段

 当時の稽古がどんなものだったのか、さすがに26年前ともなると記憶が定かではない。しかし、現在の稽古と比較する形で記憶の糸を辿ってみると、いくつかの異なる点が思い浮かぶ。今回はそれを挙げてみる。

1.顔面ルールと極真ルールとで分けられていた稽古
 現在の稽古システムでは、たとえ白帯であっても顔面ルールを意識した約束組手を行うことは、すくなくとも総本部では常識である(考えてみると、私は昔も今も総本部しか知らない男である)。

 だが、当時仙台の総本部で稽古していた時、私は顔面ルールを意識した稽古をつけられた覚えがない。基本稽古や移動稽古の時に、「ガードを上げて!」と注意されていた記憶はあるし、パリー程度はやったような気はする(ただし、こぶしを手のひらで叩いて軌道を変えるというよりは、前腕を捻って受けたような記憶がある)。スウェーやバックステップなどといった、現在では白帯から習うような技術は教わった記憶がない。

 大道塾は「顔面へのパンチあり」ルールを大きな特徴として発足した武道団体だから、そのための攻防練習を先輩方は文字通り死ぬほどやっていたはずだ。だが、私のような白帯・青帯クラスには、その技術が流れてこなかったということだろうか。この点については、恐らく稽古体系が緑帯を境に全く異なっていたのではなかったのか、と想像するのである。

2.マススパーのない稽古
 当時のことをいくら思い出しても、「マススパー」ということばが浮かんでこないのである。あったのは約束組手とスパーリングである。

 約束組手にしても当時と今とは違う。現在総本部の火曜3部、水曜3部、木曜1部、3部、土曜2部(ビジネスマンクラス)などで行われるそれは、指導員が非常に丁寧に技を教えてくれる。だが、当時は現在のような技術講習ではなく、大まかなことは教えてくれるが、あとは見よう見まねで覚えなさいという感じだった(基本と移動は丁寧に教えてもらった)。

 スパーリングは、痛かった。前述したように完全に顔面なしだったし、選手クラスのスパーではないのだが、毎回腕と脚があざだらけになった。思い返すと、当時の私は拳サポ・すねサポ、ファールカップなどサポーター類を持っていなかった。
 
 粋がっていたのでもなんでもない。そういうものをよく知らなかったのだ。それらを購入しなさいとも言われなかった。だから、約束組手もスパーリングも道衣以外で身に着けていたのは、下着(Tシャツとトランクス)だけだった。高校の柔道の授業で、大道塾と同じ感覚でTシャツを着ていたら脱げと言われ、ああ大道塾とは違うのか、と思ったことを覚えている。

 というわけで、痛かったのは痛かったのだが、それでもひどいケガを負った記憶はないから、やはり先輩方は新人とやるときは、それなりに手を抜いていてくださったということである。でも、こちらにはそういうことに感謝する余裕など全くない。ぐるぐる回りながら、「早く終わんないかな」とか、「あ、次の次はあの先輩だ。蹴りがめちゃくちゃ痛いんだよな」などと考えてばかりいた。

 去年再入門してうれしかったことがいくつかあったが、そのうちの2つは、先輩が丁寧に技のポイントを教えてくれることと、マススパーがあったことである。

3.補強、補強、補強
 当時の稽古に関する私の記憶で多くを占めるのは、実は補強運動である。現在と比較して、圧倒的に補強に費やす時間が長かった。

 例えば毎回のように腹筋(上体のみ30回。最後の10回は左右に捻る)、V字腹筋30回(最後の10秒は静止)、背筋30回(最後の10回は左右に捻る)、首の補強(2人1組)、ヒンズースクワットや後ろ向きのうさぎ跳び(道場壁際に沿って2周)を皆でやっていた。
 
 今では全く見られないが、「スクワット前蹴り」なるものもあった。膝を深く曲げた姿勢から一本足で立ち上がりながら前蹴りを繰り出すのである。これはけっこう脚がプルプルした。拳立て伏せは、なにかの稽古の合間合間にすぐ20回という感じだった。

 柔軟体操も2人1組でぎゅうぎゅうやられた。とくに、足裏を合わせた姿勢をとり、膝の上にもう1人が後から両肩に手を添えながら乗っかってきての股関節の柔軟は最初は辛かったが、若かったこともあり、そのうち両膝が畳につくようになった。

 このような補強運動が毎回のようにあったから、全身の筋肉があっという間についてきた。いつだったか、映画「ロッキー」(1976年)で見た片手腕立て伏せをやってみたことがある。ひょいひょいという感覚で20回近くできたので、自分でも驚いた。中学生のときにチャレンジしたときは、1、2回やったところで、ベシャッとつぶれていたからである。
 
 スパーリングでケガらしいケガをしなかった理由1つには、先輩の手加減のほかにも、このような補強運動の成果があったのかもしれない。ただ当時としては、補強は辛いがスパーリングで痛い目にあわないだけましだ、などと思いながらやるという、どこまでも後ろ向きな姿勢があった。このへんに、その後中途脱落していく要素が見え隠れしている。

4.水分補給
 これも当時は、していた覚えがない。しなかったのだろうか? 当時の仙台の夏はそれほど暑くはなく、窓を開けたまま寝ていると、朝は涼しい風が入ってきて爽快な気分だった。

 そんな仙台でも夕刻から夜にかけての2時間の稽古は、相当汗をかく。ポカリスエットなどは当時売られていたから、今のように道場に持ち込んでいたのか。あるいは道場の水道水を飲んでいたのかも知れないが…、うーん、やはり思い出せない。