第7話:市原海樹選手と香港で出会う

門間理良の黒帯への階段

 1986年4月、2浪の末に立教大学文学部史学科に入学した私は探検部に入部し、洞窟探検や川下り、登山などに熱中していた。
 
 世はバブル景気真っ只中で大学キャンパスもけっこう浮ついた雰囲気だったが、こっちは夏になると、Tシャツにジーパンにビーチサンダルという風体で、おしゃれなキャンパスを歩いていた。浮ついた雰囲気の中で、探検部員は浮いていたということであろうか。

 わが立教探検部は、早稲田大学や東京農大などの名門探検部には及びもつかないが、リバーベンチャー大会で4人乗りボートの部で全国3位を獲得したり、ランドクルーザーでスマトラ島一周旅行を敢行したり、それなりの活動実績も残した。

 後から思えば、まだまだやれる余地はあったが、それなりに満足のいく探検部時代ではあった。

 探検部としての活動を精力的に行う一方で、勉学もそれなりにやっていた。中国現代史の研究者になるつもりで大学院を受験することを、大学入学当初から決めていたからである。

 いわゆる一般教養はほとんど手を抜き、中国語とゼミ、それに将来的に関係があるだろう東洋史関連の講義だけをまじめに受けていた。だから一般教養科目はC(可)かD(不合格)ばかりで、A(優)は興味ある専門科目か、誰でもAがもらえるという一般教養科目のみという状況だった。

 ゼミは通常3年次からだが、のちに指導教授となる先生に頼み込んで2年次から入れてもらっていた(ちなみに妻とはこの東洋史ゼミ合同コンパで知り合い、数ヶ月のうちには半同棲状態となっていた)。

 学部在学中に中国留学することも決めていた。その結果、学部4年次の1989年夏から1年間、中国は天津にあり、周恩来の出身校として名高い南開大学に留学することになった。大学は1年間休学した。
 
 こうなると、現役入学組からは3年遅れの卒業となるが、こっちはもう腹が据わっているから怖いもの無しである。だから、私は就職活動というものを一切したことはないし、リクルートスーツも揃えたことはない(就職試験や面接は受けた。でなければ、さすがに外務省の専門調査員にも文部科学省教科書調査官にもなれない)。
 
 こうして約10ヵ月の漢語進修生として奨学金留学生活が始まった。留学開始から約半年は、それなりに真面目に勉強していたが、後半ともなると、中国各地を旅行して回るようになった。
 
 そんな折、12月に天津に遊びに来てくれた恋人と、今度は香港で会おうということになった。詳しい前後関係は忘れてしまったが、このとき私は高澤とも連絡を取り合っており、彼も香港に行くというので会おう、という話になっていたのである。

 大道塾がすでに弁天町の道場を引き払い、平和台に移っていたことは高澤から聞いていたが、こちらは見学に行かずじまいなので、私が言うべきものはなにもない。
 
 ただ、敢えて高澤以外で大道塾との繋がりを言えば、探検部の同期がこの頃の大道塾に一時在籍していたことがある(私が紹介したわけではない)。

 その男、山本宗義。身長は180㎝近く、体重も80㎏近くで柔道も黒帯だった。彼はメキシコに旅行した時、バス待ちしているところで後の男に財布をすられたが、間髪をいれずに一本背負いで倒して財布を取り返したという男である。その場に一緒にいた後輩が興奮気味に話してくれたので、作り話ではない。

 こいつは面白いエピソードがいくつもあるのだが、残念ながらブログの品格を下げてしまうものばかりなので、書くことは出来ない。彼は3年在籍して1級をとっていたから、ずっと大道塾に在籍していたら、かなり強くなっていたかもしれない。

 この前会ったら「飯村って奴がいたなあ。あいつ、まだいる?」ときた。皆さん、どうぞ怒らないでいただきたい。当時の山本は帯も年齢も飯村先輩より上の大学生だったのだから…。

 ちなみに彼は後に人材派遣業で財を成し、今では十億円近い金で建てた豪邸に住んでいる(それは「豪邸拝見」的なテレビ番組でも放映されたが、便座に座ると野鳥の声が自動的に響くという奴らしい笑える家だった)。

 話を戻そう。1990年4月15日(この当たりの日付はパスポートの記載ではっきりしている)、私は天津から列車で2泊3日をかけて、羅湖(中国と香港を陸地で結ぶ出入境地域)から入境した。

 それからすぐに、香港半島先端部に位置する九龍(カオルーン)地区にある安宿ラッキーゲストハウスに向かった。ここは高澤が香港に滞在する際に常宿としていたところで、私と高澤はここで落ち合う手はずとなっていた。

 ちなみに、この手の名前のゲストハウスは世界中にごまんとあり、パックパッカーがたむろしている。そうは言っても当時の私の常宿は、そこから歩いて2、3分の重慶(チョンキン)マンションだった。こちらもバックパッカー御用達の雑居ビルだから、五十歩百歩である。

 久々に再会を果たした高澤は3人の精悍な男達を連れていた。高澤を介して自己紹介すると、彼らは市原海樹、蛸島巨(現むつ同好会長)、Tと名乗った。

 高澤の話によると、彼ら4人が香港に来た理由は次の通りである。
 
 高澤は前回香港で買っていた往復のチケットが残っていた。そこで、当時訪日中だったジャッキー=チェンが香港に帰る日に合わせて、自分も来ることにした。目的は当時撮影に入っていた「プロジェクト・イーグル」の撮影現場の見学だった。

 このように説明すると、読者は少し不思議がるかもしれないが、有り体に言えばこの当時の高澤はジャッキーの「追っかけ」をやっていたのである。

 と言っても、高澤はただの追っかけではない。早稲田大学時代は、映画の脚本を書き、主演・監督して上映会を開くなど、その方向で身を立てることを真剣に考えていた。そして、ジャッキーの傍で香港映画を学びたいと考えて、機会を見つけては彼のもとに通っていたのである。

 そういうわけだからジャッキー=チェンも高澤のことはよく承知していた。ジャッキーが「タイヤッ」(泰一の広東語読み)と呼びかけていたのを、私は何度か目撃している。

 さて、高澤がこの香港行きの計画を大道塾の後輩たちに話したところ、「いち」や「たこ」が、「先輩、自分らも連れてってください」と言ったそうである。ここで一言申し上げておくが、「いち」や「たこ」は、私ではなく高澤がそう呼んでいたのである。常識的に考えれば、たぶん私は彼らを君付けで呼んでいたと思う。

 既に当時、市原選手は88年無差別5位、89年同5位の新進気鋭、蛸島選手も88年に軽量級準優勝、89年に同優勝という赫々たる戦績を挙げた北斗旗戦士なのだが、こっちは名前を知っている程度である。市原選手については、体つきはがっしりしているが、けっこう小柄だなというのが第一印象であった。

 3人とも、私のことを先輩の友人であり、大道塾に昔在籍していた人物ということで、敬意をもって接してくれたので、顔を合わせた2日間、楽しく過ごすことができた。稽古のときの顔は別の顔を見せていたであろうが、ここではみな朗らかな「気のいい奴ら」という感じだった。

 香港にいる間、私たち4人は高澤行き付けのテンプルストリートの屋台で一緒に飯を食ったり、ジャッキーの所属事務所であるゴールデンハーベスト社を一緒に訪問したりした。

 私たちがGH社を訪れたときは、あいにく雨続きで撮影風景を見学することはかなわなかったが、高澤の紹介でジャッキーに握手してもらうことができた。

 高澤による紹介の後、私が漢語で挨拶すると、ジャッキーは少し戸惑った表情で、日本語で「コンニチハ」と挨拶した(彼の母語は広東語)。高澤によれば、日本人に急に漢語で挨拶されたので、自分の中で言語の切り替えがうまくできなかったのではないか、とのことだった。今では流暢に漢語を話すジャッキーも、この頃はまだうまくなかったのだろう。

 事務所で他の20~30人のファン(日本人が多かったと思う)と一緒に待っていると、打ち合わせを終えたジャッキーがスタッフと一緒に飯を食いに行くので、お供させてもらうことになった。ジャッキーは当時、このようなファンサービスを行っていたのだ。

 場所は当時ジャッキーが行きつけとしていた九龍半島のチムシャッツイ=イーストにあるニューワールドセンター(新世界中心)の北京大飯店というレストランだった。

 中国式の大きなテーブル(8人掛け程度だったか)が、数卓用意された大き目の一室を借りての食事である。私は市原選手やその他のファンと一緒の卓を囲むことになった。

 残念ながらジャッキーと同じ卓ではなかったが、振り向くとジャッキーの顔が間近に見られたので、後日私はよく「振り向けばジャッキー」と自慢し、「ジャッキーに北京ダックを奢ってもらった」と吹聴したものである(高澤よ、お前のおかげだ。ありがとう!)。

 だが、市原選手もジャッキーさんも当時の私にとっては、どうということはない。
 17日に恋人が香港(当時は啓徳空港)に到着したからである。空港で彼女を出迎えた私は、高級ホテルに宿を替えた(まさかラッキーゲストハウスに泊めるわけにはいかない)。
 
 チェックインして2人でラッキーに行くと高澤らは外出していたので、彼女と無事に会えたことを置き手紙にしたため、彼女と楽しくも短い時間をすごした。

 20日、彼女を空港で見送ることとなった。12月に北京で別れた時は泣いていたが、あと2,3カ月で留学も終了ということもあり、今度は涙ぐむ程度で済んだのでホッとしたことを覚えている。

 22日、自分もまた列車で香港を出ることになり、今度は私がチムシャッツイで高澤に別れを告げた。どうやら市原選手らも1週間程度の香港滞在で帰国したらしい。
 
 高澤は1人あと2週間程度いるとのことだった。男同士の別れに涙などない。がっちり握手したのみである。
 
 記録によれば、蛸島選手は私と出会ったほぼ1ヵ月後に行われた90年体力別北斗旗で軽量級で準優勝し、市原選手は重量級で初優勝を遂げているのだが、そんなことを知る由もなかった。

 これ以降、私が大道塾(関係者)と接する機会は、高澤を除いてなくなっていたし、特に大道塾について彼と情報交換するということもなかったからである。

 高澤は高澤で仕事に忙しかった。私も1990年6月に帰国すると、1991年4月に筑波大学大学院修士課程に進学し、東京を離れて研究生活するようになったからだ。恋人とはこの年結婚した。

 1990年代、世は総合格闘技ブームで、市原選手らを擁した大道塾がその中心にいたことを後に知るのだが、当時の私はそういったこととは無縁の生活で、博士課程に進学すると今度は北京大学に留学(1994‐96年)した。

 留学中は読書したり、論文を書いたり、仲間と酒を飲んだり、旅行したりという楽しい生活を謳歌していた。このときは妻も一緒に語学留学していたので、この2年間は本当に充実していた。

 なお、この留学のとき、太極拳や気功を学んでいる仲間もいた。しかし、誤解に基づいているのかも知れないが、私は太極拳に対しては「こんなの実戦的じゃない」、気功に至っては「騙されてんじゃないの!?」などと、まったく取り合わなかった。

 そもそも身体を動かすことに関しての志向は探検部的なものにすっかり向いていたし、「もし武道をやるのなら、大道塾だ」という気持ちも多少あったのかもしれない。

 留学から帰国したが、わずか1年で今度は台北に行くことになった。大使館的機能をもつ交流協会台北事務所での政務関係の仕事である。3年間(1997-2000年)をそこで過ごすと、3ヶ月弱の一時帰国の後、今度は北京の日本大使館勤務である。

 台北では情報の最前線に立つ仕事だったので、忙しかったが刺激的で充実していた。北京はこれから本格的に仕事をしようかという6ヶ月が経った頃、指導教授の勧めで文部科学省の採用面接を受け合格。2001年3月に帰国、4月2日、同省に教科書調査官として入省した。

 あまりにも早い帰国は大変残念ではあったが、仕方ない。

 帰国してからというもの、以前と比較して生活は落ち着いたのだが、本務と研究に忙しかったので、運動といえば家族でハイキングをする程度だった。

 体重も体型も学生時代と比較してそれほど変化はなかったし、人間ドックの結果も憂慮すべき数値はなかったので、運動をする必要性を感じてはいなかったということもある。

 ただ大道塾に対する感情は、20年も経ると学生時代とやや色彩を異にするようになっていたようだ。折に触れて思い出してはいたのだが、学生時代に抱いていた「一般的関心」というレベルから、いつの頃からか「胸に刺さった小さな棘」へと、無自覚ながら変化していたらしい。

 自分でも気づかなかった大道塾に対する微妙な心理上の変化は、ある日親友との日常会話をきっかけに、一挙に表面化することなる。それは全くもって他愛もない親友の一言だった…。

※第7話執筆に当たり、高澤泰一君に電話取材を受けてもらいました。ここに記して、高澤君に感謝申し上げます。