黒ひよの【空手ことはじめ】その7
琉球で長く培われた唐手は、一切教科書がなかったといわれています。
文字や絵による伝授はなく、口伝のみで師匠から弟子へ伝えられました。
意外に思ったのは、組手がほとんど行われなかったことです。
約束組手はありましたが、自由組手や試合はなかったそうです。
自分の力量を試すには、「掛け試し」と呼ばれた一種の野試合をするしか
ありませんでした。
このような唐手の世界に、19世紀末、大激震が走ります。
【琉球から沖縄へ】
ペリーの浦賀来航、日米修好通商条約や日米和親条約締結など日本史で
おなじみの出来事が続き、日本に明治政府が誕生します。
「富国強兵」、「脱亜入欧」など軍国色のスローガンを帯びた明治政府の
思惑は、支那侵略にまでおよびます。
そのような政治的背景があるなか、1872年、琉球王国は琉球藩として
日本に編入されることになりました。
そして廃藩置県により、琉球藩は沖縄県に改められました。
琉球王国がなくなったこと、それに伴う士族の没落は、唐手に痛恨の
一撃となりました。
担い手を失った唐手は、このとき消滅の危機に瀕したのです。
ところが、ここにひとりの唐手家が登場します。
このような危機的状況を救い、さらにより発展させるという偉業を
成し遂げた人物です。
名前を糸洲安恒といいます。
明日は糸洲安恒についてお伝えしましょう。
ディスカッション
コメント一覧
松原隆一郎
面白いことに、初期の極真は基本・移動・型の次は自由組み手だったそうな。大山館長は「それで十分」というお考えだったそうです。
これを改革し、フルコンに約束組み手を導入し、基本と組み手の橋渡しを行ったのが我が塾長なのでした。
以上、塾長から伺った話でありまする。
黒ひよ
ははぁ~~っ(ひれ伏しております)
大山館長と塾長の偉大さに圧倒されておりますが、私にとっては約束組手があってよかったです。
これなくして、自由組手だったら茫然自失になっていると思います。