第13話:あなたの知らない世界
なんで高校生のときに大道塾に入ろうと思ったのか? これは今、何度思い返してもわからない。しかし、小学生のときに合気道をやっていたことや、高校の授業の柔道もけっこう楽しんでいたから、「武道好き」の素養みたいなものはあったのだろう。
それに加えて、私の場合「好奇心」がキーワードになっているような気がする。
立教大学時代、私は探検部に所属していた。入部の理由は「普通の人が行けないようなところに足を踏み入れて、この目でその光景を見てみたい」という願望があったからだ。探検部なら、そういった願望がかないそうな気がしたからだ。その思いはけっこうかなえられた。
読者の皆さんは「洞窟」というとどのようなイメージをおもちだろうか? 美しい鍾乳洞に代表されるいわゆる観光洞のようなものが一般的だろう。
それともアニメなどで、時折でてくる洞窟のシーン? 主人公が薄暗がりの洞窟の中を立って歩き、時折コウモリがばたばたと飛んでわっと驚くという、まあ、おなじみのシーンである。
でも、あれには大きな嘘がある。主人公はヘッドランプのような光源をもっていないにもかかわらず、平気で洞内を歩き回っていることが多いが、本物の洞窟は真の闇に包まれている。ライトのスイッチを切ると、無限の闇が広がっているのだ。自分の目の前にかざした指先すら見えない。だから洞窟に入るときもっとも重要な装備はヘッドランプである。洞窟合宿の時は替えの電池や電球をしっかり確認してもっていったものだ。
音? 音はする。水が流れたり滴ったりする音だったり、風の抜けるかすかな音だったり。落石の音もある。
結論から言えば、大多数の洞窟はただの穴である。
ただの穴だから一般人は誰も入りたがらない。だから整備は当然されていない。ヘルメットをかぶり、ヘッドランプを装備し、つなぎを着て、場合によっては竪穴装備(ザイルやカラビナ、安全ベルトなど)を準備して入洞するのだ。
岩がごろごろしているところを越え、泥に足元をとられ、多くの場合は腰をかがめたり四つんばいになりながら進まなければならない。
時には泥水の中に顔をつけながら進まねば通れない箇所もあるし、狭い岩盤の間を通り抜けるときは、ヘルメットをとって匍匐前進しなければならないような場所もある。思い切り息を吸い込んだらつかえて通れないところは、息をゆっくり吐きながら進むと楽だ。体全体を回旋させながら通り抜ける穴(我々はこの地点をスクリューと呼んでいた)もある。まるで赤ちゃんがお母さんのお腹からでてくるときみたいではないか。
人類が獲得した二足歩行という特性を有効に生かし得ないフィールドが、普通の洞窟なのである。
そんな洞窟の中間地点で
「先輩! 一度でいいから空を見せてください!」
と叫んだ奴がいたなあ(私は暗所恐怖症でも閉所恐怖症でもありません)。
もちろん素晴らしい洞窟もある。水が滔々と洞内から外に溢れ出してくるところを、水着、ウェットスーツ、つなぎ、ライフジャケットを着こみ、装備を小さなゴムボートに載せて泳ぎながら内部に突入していく洞窟もある。
蝙蝠が何万羽も飛び交う大洞窟もある。そんな洞窟はこうもりのフンで足元がふかふかだ。
氷に閉ざされた洞窟もあれば、狭い穴をやっとの思いで潜り抜けると、乳白色に輝く鍾乳石がシャンデリアのように天井から降りているような洞窟もある。
川下りだって素晴らしい体験だ。たとえば激流下り(ラフティング)。
ウェットスーツを着てライフジャケットを着用。それに川下り用ヘルメット、ダイビング用ブーツに手袋という完全装備で、雨で増水してどおどおと巨大な音がする川に漕ぎ出る瞬間の緊張感!
そのとき
「俺、マジで怖いよ」
ってつぶやいた奴もいた(これも私ではありません)。
私は以前、4人乗りゴムボート(前2人、後2人で搭乗)で荒れ狂う利根川上流に漕ぎ出たとき、増水で隠された大岩にボートごと乗り上げた瞬間、ボートから弾き飛ばされたことがあった。
前に座っていた奴の頭の上を飛び越え、激流に投げ出されたのだ。
ものすごい速さで流れているため、なかなか水面に浮上できない。その間、視界は白く泡立った流れに遮られてほとんど見えない。
どおどおと流れる水音と、水底を転がる岩の「ガガガガ」、「ゴゴゴゴッ」という不気味な音が聞こえるのみだ。
20mも水底をもみくちゃにされながら流されると、ようやく流れの緩やかなところに来て、体が浮いてくる。ボートに泳いでたどり着き、引っ張りあげてもらう。パドル(オール)は流されてしまっていた。
川の上流から河口までゆっくりと数日をかけて下るリバーツーリングもいい思い出だ。
皆さんは川面の目線から陸を眺めたことがあるだろうか? 川と一体となって流れて行くっていいもんだ。
暑くなったら飛び込んでゆらゆらとボートと漂うもよし。
夕方前にボートを川岸に上げてキャンプする。夕飯を食って、焚き火を囲んでゆっくりと酒を飲む。炎の揺らぎが心を休ませてくれる。
秋山登山はすがすがしい冷たい空気と紅葉。それに目の前に広がる大パノラマ。夜は満天の星空だ。
スマトラ島を旅したときは、現地の長距離トラックの運ちゃんが泊まるドライブインによく宿泊した。
裏に流れる川に入って身体を洗い、そこで夕食を取ると、板の間に無料で寝せてくれるのだ。
夜中に天井や壁に小さな青い宝石が無数に輝きながら動いている。ヤモリの目だ。ときどき間抜けな奴が顔の上に落ちてきては、慌てて走り去っていく。
チイチイという鳴き声もまたかわいい。
朝起きて、顔を洗いに裏の川へ。トイレに行く奴も裏の川へ。みんな川へ川へ…。
普通の人が知らない世界。
それはさまざまな世界があるだろうが、これが私の見てきた世界の一部だ。
だが、空道の世界も普通の人が知らない世界であるという気がする。殴り、殴られ、蹴り、蹴られ、投げ、投げられ、極め、極められる。
他のスポーツ、例えば野球やサッカーなら、敷居はそれほど高くないだろう。
でも、空道のようななんでもありのぶつかりあいだと、最初の段階でしり込みしてしまう人も少なくないだろう。社会体育として普及を目指すという理念からは、このようなことではいけないのだろうが、現実的にはそんなものではないだろうか。
その一線をいとも簡単に踏み越えた皆さんへ! いったい空道を始めた理由はなんですか?
ディスカッション
コメント一覧
植竹孝幸
自分もインドに2ヶ月いた時は世界観が変わりましたよ。川では沐浴する人、洗濯をする人、食器を洗う人、用をたす人、そして、シーツに包まれた遺体も流れてくるガンジス川。あそこには輪廻転生があります。
空道を始めたきっかけは武道をやるならば何でもアリを
やろうと思ったからです。総合という選択肢もあったのですが、やはり胴衣に帯に魅せられたが理由でしょうか。土曜日寝不足の中、更衣室で胴衣を着て帯を締めると目が覚めますからね。
saway
やはり昔、中米の川で、現地の案内らに”ダンゲロス”と呼ばれていたコースをラフティングしたことがありました。操縦者がふざけているのか、しょっちゅう川辺の流木に激突したり、ひどいものでした。一度などは、そのままぶつかると背中を痛打する高さだったので、反射的にボート上で腰を浮かせて、殿部をぶつけ大事に至らずにすんだケースもありました。「俺のケツはクッションじゃねえ」と怒り叫んだものでしたが、のちに分かった事ですが、”ダンゲロス”とはdangerousの思いっきりスペイン語読みだったんですね。なんだ、英語じゃん…。
空道を始めた理由は、”何でもアリ”というのが私にとってもキーワードでした。では、なぜ武道をやるのかと訊かれると、答えに窮します。護身というほどには、自分の命に執着がある方でもないですし。でも、強いて言うならば、冒険同様、究極的な場面に置かれた時の己の心身の反応に興味があるのかもしれません。普段、眠っていたものが起き上がってくるような感覚が好きなのかもしれません。