第6話:大学受験で東京支部に宿泊

門間理良の黒帯への階段

 大道塾を辞めてからというもの、ずいぶんと高校生活を楽しんだ。放送部員としては番組製作やコンパを、地学部員としては天体観測やコンパをやっていた。高校生にもかかわらず、年に数回は国分町(仙台一の繁華街)で飲んで酔っ払っては、自転車をあちこちにぶつけながら「ご帰宅」していた。 :pint:

 アニメお宅としてもかなりのものだった。知る人ぞ知るアニメ系投稿雑誌OUTでは投稿常連者になっていた。

 このように楽しみすぎた報いは、目に見える結果としてすぐ現れた。浪人である。そこでも飲み会に名画座での映画鑑賞に恋(と言ってもこちらの片思いか、先方の一方通行)にと、いそしみ過ぎてしまった。
 
 ここまでくると単なるアホとしか言いようがない。2浪決定である。

 ようやく目が覚めて真面目に勉強し、1986年の2月を迎えた。1浪の時は、父の見つけた受験者向けパックを利用して散々な目にあったので、既に1浪で早稲田に合格していた一高時代の親友のアパートに転がり込んで受験することになった。

 その友人は池袋から西武池袋線で一駅の椎名町に住んでいた(大学進学後、私も住むようになる)ので、私はそこを拠点にいくつかの大学を受けた。その内の1つに早稲田大学があった。

 もちろん、その親友宅から早稲田大学に向かっても大した距離ではなかったのだが、このときは早稲田大学から至近距離にあった別の友人の部屋に世話になった。それが高澤泰一(第二話を参照)である。

 私が大道塾に在籍していた当時、高澤とはそれほどの関係でもなかったのだが、高校3年から1浪の時代にかけて急速に親交を深め、このときには親友(悪友)となっていた。

 高澤は1985年春に早稲田大学第二文学部に合格したが、アパートを借りようにも先立つものがない。そこで東先生に相談したところ、月々5000円という家賃兼月謝で、大道塾の稽古と事務手伝い、東先生が上京された時の食事の世話などをしながら、道場に隣接したボロアパート(それ以外の表現が思い浮かばない)の1階にある部屋(風呂無しトイレ共同)に住むようになった。

 そこは、本来東先生が東京支部に指導にいらっしゃる折に寝泊りするために借りた部屋で、塾生の出席簿や道場の鍵、月謝などを管理するための事務室でもあった。当時の稽古は火・木・土・日の週4日体制で、それ以外の曜日は、沖縄の上地流空手の道場としても使用されていたという。

 道場の様子については、東先生の著書『はみだし空手から空道へ』などに詳しいのでここでは省くが、とにかくボロかった。どのくらいボロかったかというと、道場と棟続きの大家さん宅が揺れて迷惑をかけてはいけないと、準備運動の冒頭にあるジャンプは省いていたほどだったそうだ。

 受験生の私はそこに泊めてもらうことになったのである。弁天町の道場をこの眼で見た人は、現在の塾生ではごく少数だと思われる。知っているだけでなく、泊まったことがあるとなると、その数はさらに限られるのではないか。

 その晩、高澤と夕飯を食べ、銭湯に行き、布団を並べて寝て、受験当日はご飯を炊いてもらい、早稲田大学の校門まで送ってもらった。友人とはありがたいものである。

 高澤はその後、1988年4月に大道塾の大学同好会としては初となる大道塾早稲田大学準支部を立ち上げた。その頃、同準支部で活躍していた人物として、横浜北の青木支部長や総本部で指導いただいた朝岡先輩などがいらっしゃる。

 余談になるが、以前朝岡先輩に「門間さんは高澤先輩のお友達だそうですね。高澤先輩にはお世話になっています」と言われたことがある。そのときには、「泰一、お前案外偉いじゃん」と素直に感心してしまった。

 高澤や早稲田出身の諸先輩・現役の人々にはぜひ『大道塾早稲田大学準支部史』をまとめてほしいものだ。きっと、読み応えのある本が出来上がるに違いない。

 え? 早稲田受験はどうなったって? はい、落ちました 😀

 結局私は立教大学に進学したのだが、このようにして大道塾と約4年ぶりにディープな「再会」をしても、「これを機会に俺ももう一回やってみるか!」という気にはならなかった。それほど、「大道塾はもういいや」という気持ちが強かったのである。

 だが、大学に進学してさらに4年が過ぎた頃、もう一度大道塾との縁を確認することになる。
 
 市原海樹選手との出会いである。それは、1990年4月、香港は九龍でのことだった。

※第六話執筆に当たり、高澤泰一君に電話取材を受けてもらいました。ここに記して、高澤君に感謝申し上げます。