髭失格(4)混迷するアイデンチチー

髭(ひげ)失格

そうだ、ここは間違いなく札幌の郊外。昔、訪れたことがあるような、それでいて別の場所のような。しかし、意味があって自分はここにいる。そのことだけは確信が持てた。

・・・確信ってなんだろう。

透き通った青空を見上げると、元沖縄・北海道開発庁長官が浮かんでいた。

「髭をソリなさ~い!」

空から降ってきたその声は、興奮のあまりに裏返っていた。
「あなたまでも、そんなことをおっしゃいますか。」
ヒロは嫌気が差して呟いた。元長官の眼がパチリとまばたきした。ヒロの言葉に反応したせいか、風が吹いたせいかは分からない。ただ、驚いたことにそのまばたきは、下瞼が持ち上がり、まるで鳥類のそれのようであった。そういえば、元長官はどこかミミズクに似ていた。

「なぜそこまで髭にこだわるのだ、君。」

ヒステリックなミミズクが言った。

「俺は男だ~!」

ヒロの代わりに、新しい千葉県知事が海に向かって叫んだ。

「君は、髭で男らしさを表現しているつもりか~。」

テンションが高すぎて、批判なのだか称賛なのだかよく分からない。二人にとって自分の存在などどうでもよいのかもしれなかった。ヒロは少し淋しくなって考え込んでしまった。今まで、自分の髭について深く考えたことはなかった。

「髭を剃るのは簡単なことじゃないよね。」

イラク支援活動の初代隊長であった参議院議員がそっと味方をしてくれた。「髭を伸ばす理由はいろいろだけれど、君の場合は根深い深層心理が働いているよね。」「私の遠征したイラクでは、トラウマになった隊員もいたさー。」そう言いながら、頬杖をついた元隊長は、グラスにスコッチウイスキーを並々と注いだ。彼もまた、結局は自分独りだけ居れば充足しているようだった。

「き、君は、、、どこだ!!」

いつのまにかぐでんぐでんになってしまった、前財務金融相が叫んだ。ちょうど大きなケヤキの木の枝にひっかかった感じにぶらさがっており、ゆっくり回転している。本人の視野が回転しているのに、どこだも何もない。ヒロは、空に浮かんだミミズク元長官をもう一度見上げ、ようやく口を開いた。

「だけど、元長官。」

最初に湧いた素朴な疑問を発してみる決意が着いたのだった。

「ゼネコンから金もらって、開発したんは沖縄と北海道だけなん?」

髭とはまったく関係のない質問だった。読者はみるみる引いて行った。名誉のために言えば、ヒロは裏金や違法献金の問題よりも、沖縄と北海道が厄介者扱いされたような形になっている事に腹が立っていたのだった。それでいて、公共事業費は地元にはさして落ちないのだ。

先ほどよりも強い風が吹き、木の葉が舞う。見上げると元長官は太陽に近い位置に移動しており、もはや表情は見てとれなかった。手をかざしてシルエットだけを見ていると、元長官は無言のまま徐々に徐々に小さくなっていき、太陽の黒点のようになって消えてしまった。そうして、誰もいなくなった。

ヒロは激しい眩暈を覚えた。あのガンマンといい、今見た魑魅魍魎といい、果たして自分は本当に正気なのだろうか? 疲労困憊したヒロは、たまたま通りかかったタクシーを拾うことにした。

髭(ひげ)失格

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