黒ひよの【空手ことはじめ】その3

黒ひよの稽古日記

琉球の唐手では、素手による技術だけではなく、武器術も合わせて伝授して
いたといわれています。

・棍術(棒術)
・節棍術(ヌンチャク・三節棍など)
・藤牌(ティンベー・盾)

などの「いかにも!」といったものもありますが、武器として使われたのは
これだけではなかったようです。
船の櫂、魚を突くモリなどの漁具や鋤、鍬のような農具もさかんに利用され
たのです。

このうち棒術は大いに発達をとげたのだそうです。

この頃、希望する誰もが教えてもらえたのではなかったと伝えられています。
教わるのは内弟子として入門(拝師、というそうです)した者のみ、しかも
マンツーマンか、多くても弟子は二人だけだったそうです。

琉球王国第三代国王の「尚真王」(1465年生、1526年没)は、在位中に厳し
い禁武政策をとりました。
国中の武器をあつめて厳重な管理を施したといいます。
また、薩摩藩が慶長14年(1609年)に琉球を侵略しました。
そして士族は武器の携帯に制限されたそうです。
これらの出来事が重なって、素手による、あるいは農具や漁具を利用する武
術が発達したとする説があります。

ところが一方、これを覆す説もあります。

薩摩藩の禁武政策は、研究が進むにつれ、以前いわれていたほど厳しいもの
ではなかったことがわかってきました。
ですので切羽詰って、素手や生活用具で戦う必要はなかったとする説です。
まだあります。
薩摩藩の武器は鉄砲や刀です。
これに素手で対抗するというのは現実的ではなく、考えにくい、これがため
に琉球士族が唐手にいそしんだとするのは無理がある、とするものです。
藤原稜三という研究家が、「根拠なき浮説」と言い切るゆえんなのです。

今日はここでひと区切りです。

今、私がもっとも心配しているのは、このままこうして時間軸にしたがって
書き進めていって、14回めに美しくフィニッシュできるのか?否か?
ということです。。。
14回めあたりでまだ明治時代・・・だったら・・・どうしましょう???

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